鹿児島の中国人 ~富裕な貿易問屋の誕生秘話~
450年ほど前に中国人によって記された書物には、「九州に広く居住していた中国人が、倭寇を手引きした」という記述も残っている。鹿児島には中国に因む地名が多い、鹿児島市鴨池の「唐湊」、そうめん流しで有名な指宿・山川の「唐船峡」など大字小字に唐が付く地名が20近く存在した(角川日本地名大辞典より)。
中国人系唐人町の6割が南九州
また、これまでの歴史研究によると九州の中国人系唐人町の6割が南九州に存在したと。昭和の郵便番号簿には、唐人町の地名が残っており、例えば、加世田の唐仁原・市来や高山の唐人・東串良の唐仁など(いずれも鹿児島)。
倭寇の根拠地
さらに鹿児島には倭寇の根拠地が随分たくさんあったようで、志布志・根占・加治木・鹿児島・谷山・指宿・山川・坊津・市来・阿久根など。そう鹿児島には海賊の子孫が多いのか?
倭寇から密貿易へ
拉致?してきた中国人と密貿易したい中国人がこれらの地域に居住し、それが唐人町の名残。その中で、鎖国していた江戸時代に密貿易でもっとも繁栄したのが「市来(いちき)」。その繁栄を元に、富裕な貿易問屋が誕生し、西郷隆盛との深い関係や鹿児島の実業界に君臨する一族が誕生した。
なぜ?市来か
唐人町が存在した地域は、現在の鹿児島本線「市来駅」近くの浄泉寺付近。もともと市来は吹上浜の砂州の影響で、船溜りに好適な潮溜り(干潮時と満潮時の差が1m以上)があった。・・・良港であったという理由
薩摩藩が鹿児島を出立して1日目に泊まるのが、市来だった。このため、参勤交代の宿役という苦役を市来にはかけていた という理由から市の開設を許可した。・・・参勤交代の宿所と市立の許可による繁栄
しかし、藩の圧政に苦しむ薩摩は人々の暮らしは苦しく、市場開設だけで富裕な商家(貿易問屋)が誕生するようには思えない・・・富裕商家の3家が誕生した理由は・・・>続きは次回
*今回の記事は、私が山川港(鹿児島の南 指宿近く)へ海鮮の買付に行った際に、山川も密貿易の拠点だったことを地元の石碑で知り、色々と調べてみたところネット上には、ほとんど情報がなく10年ぶりに鹿児島県立図書館に行ったことが発端です。調べるとかなり興味深いことが出てきたので、入手した情報を元に、連載記事としてお伝えしたいと思います。
写真は現在の厦門(アモイ xiamen) 福建省


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