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鹿児島の中国人 ~密貿易の中心~

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密貿易と言っていたわりには、一度に複数の私貿易の船が中国から鹿児島各地の港に来ており、「行きはよいよい、帰りは怖い」というような状況でもなく、福建省と鹿児島間には潮の流れを利用した盛んな船の往来があったようだ。

なぜチャイナタウンが形成されなかったのか?

中国人系唐人町として、日本人と隣接した形で反映していき、最終的には日本人と同化したためにチャイナタウン化することはなかった。その理由の一つには、中国船がもたらす唐物(薬材・香辛料・染料など)を求めて越中や大阪・九州一円の商人たちが市来に群がったこと、そして中国船の欲しがる幕府禁制品(なまこ・あわび・ふかひれ・昆布)が海上輸送によって市来に集約していたために、中国人と市来びと(日本人)が協力していたようである。

市来に生まれた富裕な貿易問屋

このようにして時代劇にも登場する いわゆる「回船問屋」が市来で繁栄したのは江戸時代。最大の密貿易港として市来が繁栄したのが寛政期(18世紀)から文化文政期(19世紀)といわれ、海上輸送・問屋・貿易をかねた貿易問屋がいくつか市来で誕生したのはいうまでもない。文献によると3家とも5家とも書いてあるが、海江田・若松・江夏の3家の富裕な貿易問屋が生まれた。西郷隆盛と関係する豪商となったり、銀行を設立して鹿児島の実業界に君臨した一族もこの中から誕生した。

薩摩藩の膨大な借金も

歴史的には「調所広郷」という人物が江戸時代後期に、江戸幕府からいじめられていた薩摩藩の財政を立て直したことで有名である。この借金返済において、密貿易が多大な借財を帳消しにしてくれた。当時としては相当な借金だったので、この時代に中国と行われていた密貿易の規模はかなり大きかったと予想できる。

長崎犯科帳に出てくる

今で言う「長崎税関」なのかもしれないが、抜け荷などの罪で捕らえられた市来びとが、長崎犯科帳にも出てくる。しかし「叱り」や「荷物没収」など犯罪に対して甘い処分がなされている。これは時代的傾向なのか?幕府の意向なのかわからない。

江夏家のその後

富裕な3家のうち、江夏(コウカ)家のみが中国系であった。2000年以降の鹿児島県ハローページを見ても、その子孫は点在しているようである。初代は福建省の黄氏といわれ、秀吉の朝鮮出兵の頃から、島津氏(薩摩藩藩主)と関係があったようである。市来がこのように繁栄したはじまりは江夏氏の存在が大きいといわれており、市来町の旧役場付近には中国系の墳墓や石像が残されている。しかし、この頃の中国人は二世以降は日本名を名乗り、また密貿易の衰退とともに経済的基盤が崩壊したために、明治以降は完全に日本人化したものと考えられ、確たる証拠となるような文献が見つからない。

鎖国時代に唯一門戸を開いていた長崎が表なら、密貿易の中心鹿児島は裏だったのかもしれないが、鹿児島の一時代を支えたことは否定できない。

写真は現在の厦門(アモイ xiamen) 福建省

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コメント

鹿児島市生まれで現在は相模原市住まいです。
亡くなったお袋が、市来出身で旧姓は江夏(コウカ)姓です。
先祖の墓は、海岸沿いの旧役場付近です。

プロ野球の江夏(エナツ)も広島時代に
市来に墓参りに来たそうです。

先祖の一端を教えてもらありがとうございました。

[2010年6月29日]Posted by gonngoetsu

gonngoetsuさん
コメントありがとうございます。
私も母が日置出身なので、市来方面の方とは昔から交流が多く、分断されていた記憶を鹿児島県立図書館でつないだだけです。鹿児島の観光地である「城山」のふもと(旧鶴丸城)にありますので、もし鹿児島にお越しの際は、ご先祖様の資料集めをされては如何でしょうか。
この記事を書いた後、5月末に市来の旧役場付近を散策してきました。地物の魚を販売しているようなところもあり、なかなか良い場所でした。

[2010年7月10日]Posted by sasaAuthor Profile Page

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